長島 城田 スケート連盟役員
現スケート連盟理事
会長 | 橋本 聖子 | 理事 | 寺尾 悟 | |
副会長 | 長島 昭久 | 理事 | 堀内 律子 | |
副会長 | 荒川 静香 | 理事 | 清水 宏保 | |
専務理事 | 天野 好人 | 理事 | 佐野 稔 | |
理事 | 堀内光一郎 | 理事 | 北澤 欣浩 | |
理事 | 川上 隆史 | 理事 | 田名部 和彦 | |
理事 | 濱野 勉 | 理事 | 宇垣 静子 | |
理事 | 伊東 秀仁 | 理事 | 新田 俊彦 | |
理事 | 阿部 鉄雄 | 理事 | 畠山 睦夫 | |
理事 | 野頭 達二 | 理事 | 宮永 芳明 | |
理事 | 大石 雅寛 | 理事 | 藤井 康男 | |
理事 | 酒井 宏哉 | 監事 | 上治丈太郎 | |
理事 | 湯田 淳 | 監事 | 長沼 和雄 | |
理事 | 小林 芳子 | 監事 | 堀江 倫顕 |
平成30年10月5日現在
政治家は橋本と長島の二人
長島 昭久(ながしま あきひさ、1962年〈昭和37年〉2月17日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、会派「未来日本」代表、子どもの貧困対策推進議員連盟(呼びかけ人・幹事長)[1]、日本スケート連盟副会長[2]。朝鮮通信使交流議員の会(幹事)。
防衛大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅内閣)、内閣総理大臣補佐官(野田内閣・野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)、防衛副大臣(野田第3次改造内閣)、民進党「次の内閣」ネクスト外務大臣、民進党東京都連幹事長、希望の党政策調査会長(第2代)などを歴任した。
1992年、大前研一が創設した平成維新の会に参加する[3]。1993年からアメリカ合衆国テネシー州のヴァンタービルト大学で客員研究員を務めた[3]。1995年からワシントンD.C.のジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)で学び、国際関係論で修士号を取得する[3]。
1997年、アメリカ合衆国外交問題評議会研究員(アジア政策担当)に就任[3]。2000年1月に上席研究員(非常勤)に昇任し、ジョンズ・ホプキンス大学ライシャワー東アジア研究所の客員研究員を兼務する。その後、東京財団主任研究員を務めた[3]。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では小選挙区で敗れるも重複立候補していた比例東京ブロックで復活当選となり、再選される。選挙後の代表選挙では前原誠司の推薦人に名を連ねた[4]。新代表となった前原の下で「次の内閣」のネクスト防衛庁長官に抜擢されるとともに、安全保障委員会の野党側筆頭理事に就任、党内の安全保障政策の取りまとめにあたる。また、2003年より慶應義塾大学大学院法学研究科で非常勤講師(国家安全保障政策担当)、2006年より中央大学大学院公共政策研究科で客員教授を務める。その後、前原に代わり代表に就任した小沢一郎の「次の内閣」でもネクスト防衛庁長官に留任した[3]。
2009年、第45回衆議院議員総選挙に東京21区から民主党公認で立候補し、前回の選挙で敗れた自民党の小川友一を破り3選。同年9月18日、鳩山由紀夫内閣の防衛大臣政務官に就任。2010年6月8日に発足した菅内閣においても防衛大臣政務官に再任された。同年9月、菅第1次改造内閣の発足に伴い退任。その後、党の外交安全保障調査会事務局長を務めた。
2011年9月、野田内閣発足に伴い、内閣総理大臣補佐官(外交および安全保障担当)に就任。2012年10月、野田第3次改造内閣で防衛副大臣に任命された。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、民主党に逆風が吹き荒れる中、東京21区で4選。なおこの総選挙において、東京都の小選挙区で議席を獲得したのは民主党では長妻昭・長島の2人に留まった。選挙後、民主党国民運動委員長に就任[3]。
2013年9月、民主党副幹事長に就任。同年9月13日、民主党東京都連会長松原仁の下で都連幹事長に就任した[5]。同年3月5日、所属していた野田グループ・前原グループを退会していたことが分かった[6]。
2014年2月、吉良州司、北神圭朗、鷲尾英一郎らと共に「国軸の会」を結成、会長に就任する。「国軸」とは、平城京から吉野を経て熊野に至る日本列島の中心を縦断するラインのことを称する。奈良県吉野で合宿をした際に、「国に政策の軸を立てる」との意味を込めて命名されたという[7]。
2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、小選挙区で敗れるも重複立候補していた比例東京ブロックで復活当選し、5選。この選挙では、小選挙区で当選した自民党の小田原潔との票差が約1,600票差であったこともあり、NHKが開票速報において小選挙区で長島が当選確実と誤って報じた[8]。
松原仁は長島の離党について、「民進党が嫌いで離党した」わけではないとし、蓮舫が二重国籍問題をうやむやにしていることも原因の一つであり、蓮舫自身が「謝るべきは謝り、釈明すべきは釈明する」など国民にはっきり説明責任を果たしていないことが党の支持率低下にも影響していると述べている[18]。
スケート連盟副会長の職歴はかなり長いはすだが、ほとんど表に出てこない。
WIKIにも記述なし。2006年からずっとスケ連副会長なのではと思うが。
荒川静香を隠れ蓑に担いで、この人がやっていることこそ、キイではないかと言う気がするが。
プロフィール
いつから副会長なのか?
2006年解体からなのか?
長島や橋本聖子をスケート連盟に送り込むために
もともとあった問題をリークしたということも。
長年にわたって異様な団体が自由に出入りしていたというスケ連。
つつけば何かは出るだろう。
それをやるタイミングとして、
誰がいつ何を目的に?
まったくフィギュアスケートに関して発言の無かった副会長の長島が
この時だけ発言している。
冷戦の時代から、
日本スケ連のフィギュアスケートだけは
旧ソと関わりが深かった。
当事者たちが政治を切り離しているつもりでも
政治のほうからすれば、
恰好の隠れ蓑にできるスポーツであったとしても
不思議はない。
アイスダンスの選手として1966年3月、同年11月の全日本選手権を連覇。競技引退後は審判の道に進み、ISUジャッジとして多くの国際大会に参加[3]。日本国内の競技会でもテクニカルコントローラーや演技審判を務めた。
1994年6月、日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長に就任[3]。1995年に日本スケート連盟理事となり[1]、長野五輪・ソルトレイク五輪・トリノ五輪の3大会で監督を務めた。独自の強化育成方針に基づき「全国有望新人発掘合宿(野辺山合宿)」や「全日本強化合宿」、ノービスからの国際試合派遣システム立ち上げを通じ、また選手に適任のコーチや振付師を探す調整役として、選手の強化に取り組んだ[4][5][3]。日本への大会誘致にも取り組んでおり、伊藤みどりのサラエボオリンピック出場の可能性を上げるために1984年世界ジュニアフィギュアスケート選手権を札幌に招致したことや、年齢制限のためトリノオリンピックに出場できない浅田真央に世界フィギュアスケート選手権で初出場初優勝の可能性を持たせるため2007年世界フィギュアスケート選手権を東京に誘致したことは有名な話である[6]。
2006年3月、日本スケート連盟の不正会計問題が朝日新聞にスクープされ、規定にない「通信費、運営費」を受け取っていたとして、4月に城田を含む8人の理事が引責辞任する運びとなった[7]。以後、日本スケート連盟からの要請により活動を自粛していた。
ここに書いてないこと。
堤義明は正妻の子で、兄の堤清治?だったかが妾の子で、
義兄弟の対立で池袋SUIBEとかがあったはずなんだが、
当時読んだ本の題名が、西部王国だか西部帝国だか、そういう題名の文庫本。
「お前、家庭だけは複雑にするなよ」と言い残した堤康次郎の言葉と、
堤義明が日本の長者番付でよくトップあたりにいたこと。
自宅に核シェルターを建設していたこと。
子供の誘拐には非常に気を付けていたことなどしか覚えていない。
兄の清治氏は内面の葛藤の人生を小説で発表していたはず。
バブル期のおしゃれな池袋seibuグループなどが目立っていたはず。
この堤義明が日本のフィギュア界をずっとポケットマネーで支えていて、
本当に力を入れていたのはアイスホッケーのほうだった。
プリンスアイスワールドを創立したのもそう。
佐藤信夫にあと何年選手をやれとか、あれこれ指示していたのも、
佐野稔にプリンスアイスワールドをやれと指示していたのもこの人のはず。
戦後の闇にも関わっただろうとはいえ、
日本のスケート界としては、頭が上がらないほど世話になったはずなのに
それはどこで見たのだったか。
最近は名前を出しているのを一切見かけない。
それはずっと日本のフィギュアを代表してISUにものを言ってきたはずの
久永勝一郎も同様。
これだけ世話になったはずが、居なかったことにしてしまうのは
スケート界の常なのか?
城田憲子強化部長は、たしかに強権的で自分の見込んだ選手にだけ肩入れしがちで、
金にうるさいし、息詰まる空気感を醸しだしてはいただろうが、
本質的に強権おばさんなだけで、体操の塚原千恵子氏と同様くらいにしか思えない。
堤義明が西部やプリンスの経営から手を引いたあたりで、
選手時代は1952年